自分のことを話したい

読書をするようになったきっかけを覚えている。中学校の先生が江國香織を勧めてくれた。兄と仲のいい先生で、そのときわたしは兄が嫌いだった。でも兄のことを好きな先生は好きだった。わたしのことを好きになってくれるかもしれないと思ったからだ。中学生の頃から承認欲求を歪めて生きていて、親友の好きでもない彼氏を寝取ろうとするくらい最悪のすれた子どもだった。

とかく、そのときに読んだのは確か「号泣する準備はできていた (新潮文庫)」だった。図書室にはなく、先生の個人所有の単行本を読ませてもらった。それから中学二年から突然小説が好きになった。江國香織を片っ端から読み進めて読み進めて、受賞作意味はあるのだと知った。後ほど撤回することになる。

 

当時家が最高に最悪の状態で、父親は無職を極めてヘビースモーカーパチンカス、母親が働いて家計を支え、喧嘩が絶えない素晴らしい状態だった。兄もわたしも反抗期だった。妹のことは不思議とまったく記憶がない。酒を誰も飲まないのが唯一の救いだった。

わたしが家族の立場だと、娘が表現を好きになってしまって、いつ自分たちの行いを露呈されるのだろう、と恐れることはないのだろうかと思う。わたしの実家は危うい。互いに殺し会える状態をずっと保っている。すぐに家族間で傷つけ合う。名字が変わったことに安寧を見出す。わたしは血のつながった家族を許すことが出来ない。もうずっとだ。

 

その救いを小説に、物語に求めた。わたしの家のような、テンプレートと言うべきよくある平凡で最悪な家庭なんて死ぬほど出てくるのだ。もしかしてこの最悪を脱出するすべが見つかるかも知れない。ヒロインは可愛くて可愛そうなほどいい。子どもが選べない親が最悪だともっといい。でも逆境に生まれた彼女たちはひたむきに努力をするのだ。努力をして、どんな境遇にも心を折ることなく、前向きに、努力をするのだ。

この最悪を脱出するくらいならいくらでも努力ができるような気がした。我が家にはすでにインターネットがあったから、個人サイトで自分を込めた小説を書きまくった。誰も救われない面白くもない話だ。この記事のように。

様々な現代小説には様々な家庭環境の人間が現れる。みな若く、十代で、何をすることもできない。男も女も平等にみな不幸だ。そう思うように仕向けられている。それはあっさりと書かれて主題にならないことも多い、何かを抱えて生きているひとの話が求められているからだ。その中にその辛さが主題にのぼる話も出てくる。それをウリにする話はたいてい面白くないから読まないことも多い。たまに出てくるくらいが解決できるかも知れないと思う。彼や彼女らの生活にほんのちょびっとスパイスを。そしていつかの大きな壁に生まれた家の地獄を。それを解決するための努力を。

――努力をして、努力をして。白馬の王子様が現れるのだ。

そんなことってある?

 

本を読むことが好きだと認識して十幾数年、さすがに救いを求めるだけのために読んでるわけじゃない。本を読むことは楽しい。

一番好きなのは作家の私生活や考え方、きっと経験したのだろう物事が漏れたことを感じたときだ。そこの部分だけ生々しさを感じる。ああきっとこれはせんせいが体験したのだろう、とほくそ笑む。自分の中だけで生々しさを感じ、文章の向こうに生きた人間の匂いを感じる。わたしはそういう文章を愛している。誰かと共有したいとも思えない密かな楽しみだ。

読書は楽しい。まるで自分がそこに入り込んだようなリアルな文章も、美しい文字が重ねられた詩集も、その作家が楽しく書いたエッセイも、未来の技術で溢れた夢のような世界も。わくわくする。どきどきする。切ない気持ちになる。涙腺が刺激されて泣くことも許される。

 

そこに突然自分の人生に近しいものが現れると、かちり、と閉じた扉の鍵が開く。救いを求める。解決策を、打開策を、知るべきだと使命感にかられる。わたしは救われたいのだ。自分を重ねる。必要以上に彼ないし彼女に入れ込む。まるで自分に起こったことのように。

そして、勝手に期待をして、勝手に裏切られる。この世は地獄だ。もし死んで生まれ変われるなら二度と生まれてきたくない。最悪の読了感を迎える。大団円。ハッピーエンド。最高の終わり方だった。素晴らしい話だった。死にたくなるほど。

 

知りたいと思いながら、知るまでの過程に心をえぐられるのが好きじゃない。だから現代文学でそのような香りがするものを避けているのかも知れない。だからこそ、ライトノベルで出会ったときに、なんの準備も出来ずに、えぐられる。えぐられながら、今度こそ救いがあるのかもしれないと期待をしている。

 

直近で血の呪縛に縛られた二冊。一冊は一人と結婚したあと離婚してもう一人と唐突に家庭を持ち子どもを持って幸せになった。ばかやろうと言う気持ちになった。読み終えてすぐ売った。もう一冊は白馬の王子様が、まさに富と名声美貌と能力に彩られた美しい王子様が、すべてを救った。ばかやろうか。中途半端な軽い気持ちで家庭の不和を描くんじゃねえ、適当にインターネットで調べた薄っぺらい知識で、どこにでもあって誰しもがえぐられるような話を、適当に、書くんじゃねえ。くそったれか。

努力の方法もなかった。運だった。歪んだ家庭に生まれながらも「歪むな」と。「素直であれ」と。「運良く現れる王子様を待ちなさい」と。「現れない主人公は存在しない」と案に言っていた。

 

わたしが成功だと確信したのは夫婦喧嘩をさせないことだった。他人の怒鳴り声は、金切り声は、感情の昂ぶった声は心を揺らす。良くも悪くも感情のこもった声は攻撃力があまりにも高い。何か揉めそうになったときは積極的に割って入る。双方の持つストレスを刺激しないように、求めている言葉をあげる。一緒に出かける。わたしは母親ないし父親になついているのだと、あなたの価値観を愛しているのだと、すべて認めてあげることだった。少なくともわたしが家を出るまでは成功した。ぐんと夫婦喧嘩が減ったように思う。

そんなことを思いついたのは結局友人の言葉だった。「いやなら変えてみれば」といったたぐいの話をされた気がする。家がいやだいやだと喚くくらいなら、自分で変われば、と。結局物語に解決策は見いだせなかった。

 

家を出た後に妹に言われた。「姉はすべてを捨てて逃げたくせに」と。夫婦喧嘩がまた戻ったらしい。当然だ。緩衝材がなくなればぶつかるに決まっている。わたしの家族は全員が全員愛されることに慣れきっている。地獄のような家族のくせに、無条件で、自分が愛されるに値する人間だと、自分のことを慮ってくれるひとが周りにいるのが当然だと、思い込んでいる。友人に言われるまでわたしもそうだった。妹の気付け薬にわたしはなれない。

 

地獄は天国になり得ない。どんな物語を読んでも。自分が犠牲になって周りをすこしマシにするか、自分が地獄から這い出るしかないのだ。這い出た地獄をたまに顧みる。

わたしは家族を許せるか? 否、許すことは出来ない。

 

わたしが問題を解決できたらそういう話を書ければなと思っていた。逃げて気づいた。この地獄はこの血筋がすべて死ぬまで終わらない。わたしは誰かの救いにはなれない。薄らと気づいている。物語で救われることはない。一時的な凌ぎにしかならない。でも苦痛を与えられて飼い殺されるくらいなら、甘美な非現実世界を夢に見て自分で死ぬほうがよっぽどマシではないか?

地獄は地獄だと認識したときから始まる。自分に酔って閉じこもりさえすれば、そこはただの地獄だ。希望なんて見なくて済む。

 

この話はすべてフィクションです。