ないへきだったかうちかべだったか

自分の考えた言葉の意味を忘れる。わたしに言葉の色はわからない。空想ならできる。共感覚を持ち得ないと自分でわかりながらも、そこに色を見い出せばそれは共感覚足り得るのではないだろうか。わたしはわたしの直感を信じている。誰かの受け売りだ。直感が正しかった時、それはどうして、と問いかける。なぜそう判断した? どうして選んだ? その時の状況は? などなど。

さいきんお話を紡ぐときに映像が見えるようになった。昔からそうだったような気もするけれど、こと更に鮮明だ。昔書いた話は色鮮やかな赤とオレンジを持っていた。十年前のわたしは、もみじが散りゆく庭を、華やかに燃える夕陽を、そして日本が堕ちゆく落陽を、こうも描きたかったのかと。そしてその鮮やかに青さを増す秋の空に、ぽつんとたつ灰色の墓石を。なんともノスタルジック極まりない。
けれどもわたしが色鮮やかに「見た」世界を、はたして誰が受け入れてくれるのだろうか? 少なくとも今は情景が浮かぶような描写を心がけてはいるが、はたしてはたして、他の感受性とはいかに。知る由もなし、理解できるものでもなし。


ここ最近になり、ようやくひとつの答えが出た。わたしは多を認識するときに、性別を重んじることができない。体躯の差異は個性だと思う。「女性らしい女性さ」は教育の賜物であり、他の「女性らしい」女性と青春ゲームをしてこそなり得る結果だと見る。男性もまたしかり。しかしながら、昨今は男性と呼ばれる体躯を持つ人間に多様性を感じているのは、わたしの性欲求の対象が男性であるからだろう。自由を先に得ることができるのは男性だからだろうか。世の女性は一体何に縛られて自由ではないと錯覚するのか。与えられることを常として生きる人間ほど、多様性を理解しない気はしている。これは、女性だからではなく、単に「女性らしい女性」として育てられたからでは、と思う。
人はおそらく思春期のあいだに、いわゆる女子中学生や高校生のころに女性性を獲得するのではないか。身体つきや初潮のおとずれ、一足早く女性性に目覚めた学友によって。仲睦まじく他者を排除していく排他的なさまを女らしいと言うのであれば、まことに女性らしい限りだ。

わたしが観測する上で女が怒るのは、男のこれまでの教育だ。女は下。家庭に入るべし。男にダッチワイフとして可愛がられたあとに子を成すべし。子はすべて女が見るものもする。などという昭和もびっくり価値観だ。それから、乱暴性。ブスなどと不名誉な見てくれをけなすことばを投げかけ、髪を引っ張るなどなど。いやしかし二十云年も昔のことを未だに覚えて苦手意識を持つなど、その記憶力に感服する。
仲良くしていた男性が突然男女関係になることを望んだり、性的欲求を顕にすることを、テディベアにペニスが生えたようと感じるらしい。はてさて、彼女らは目の前にいる人間すべてが無性別だと思って生きているのだろうか。自分と仲良くできるのはその股間に露出する性器が目立たない生物だけだと思っているのだろうか。だとするとこの女性はとんでもなくショタコンなのでは?

はあ、さて、個性を得るのはどこでだろうか。自身が生まれてしまった性別が影響を与えるのは仕方がない。異性とともにあるべきと思うことも仕方がない。なぜならば交尾をして繁殖することは動物的使命だからである。現代の地球において必要かは、ここでは問題ではない。男が嫌いな女性は大抵、性交渉を望んでいない。過剰に恐れる傾向があるように思う。経験不足のなせる業だとも思うけれども、だからといって不特定多数とことを致すのもあまり正しくないように思う。妊娠のリスク、性病のリスク、みずからの性質が誤解されるリスクなどにより。
けれどもパートナーというものは、必ずしも性交渉を必要とするのか? 異性間であれば、避妊をしてまで行うべきなのだろうか。望まない人間が存在するということを、かならずしも、望まないあなたはわかっているはずだ。
では簡単な問題である。
「わたしの考えを当ててみよ」
答えは明朗。
「そんなの知るか」
これに尽きる。そして個が生まれる。

子供ではないのだ。少なくとも、異性に関して、将来を見据えた性的な意味で嫌気を差すくらいには。嫌なことをされたから、嫌い、で片付くような単純な脳構造を持つ生物ではないのだ、すでにわたしたちは。
伝えねばなるまい。声を大にして。自分が望むものと、嫌悪しているものを。そして聞かねばならない。相手の反論を、他者の意見を。なぜなら言論の自由が保障されているからだ。子供のように駄々をこねていやだいやだ嫌いだきらいだと理解を示さず喚くだけならば、その口を閉じて独りで生きるが良い。少なくとも昨今の日本では許されているはずだ。

はあ、さてさて、わたしたちは描かねばならない。みずからだけが見えているものを。でなければ他人に伝わらない。そして宙にはなったことばの責を背負わねばならない。言論の自由とはそういうことだ。


誰かの体内に指を入れたことがあるだろうか。粘膜でできた内臓の中へ。みずからのでもいい。たしかに熱があり、そして傷を拒むための粘液がある。それを擦ってなお傷を付けたいと思うのがわたしの性質だ。こころに瑕を付けて、わたしが恍惚にひたるとき、あなたもまた気持ちよくなればいいと思う。そしてまた、あなたもわたしの内壁へ指を差し込んでしまえばいい。他者の中は気持ちよく、柔らかい。生きているからだ。