人生がままならない

アウトプットをしないことになれてしまって長文が書けなくなってきたのと、新しいキーボードに慣れたいのでつらつらと。

 

前の会社を退職して、今の会社に入社してすこし。

前職は有給消化中にも外注として仕事を請け負っていたので、けっこう大変だったように思う。

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1時まで働くのが割とざらで、寝る時間が少なくて辛かったような記憶がある。

それを年明けくらいまで続けていて、前職から最後に給与の振り込みがあったのが今年の3月だった。つまり今年になってから仕事の発注がなくなった。

職場にいたときからやはり折込チラシという前世紀のツールの使用頻度はどんどん減っていて、当時外注だった人にも満足に仕事が振れなかった。そのくせに突然舞い込んできた仕事は押し付けていたから、「かわいそうだなあ」「迷惑だろうなあ」と思いながら頼んでいたものだった。

いまその立場になってから思ったけれども、一番迷惑なのは収入の安定がはかれないことだなと気づいた。フリーランスだから収入の安定をはかりたい、などというのは確かにおこがましい限りなんだけど、それでも毎月出ていくお金がある限りは入ってくるお金もそれ以上にほしい。

チラシ1件あたり1万5千円の相場は安いらしいけど、それでも両面で3万円、それが月4回入れば副業としてはまあ良い部類にはいると思っていた。しかしそれが週に両面と半分と思ったら次の週もその次の週もなし。と思ったらまた次の週には両面と半分を上げてくれみたいな発注がくるので、頼むから均してくれ……とまじで願ったものだった。

 

そしてわたしの対応がおざなりになったことも感じていたのだろう、ありがたいことに前職の仕事はこなくなったわけだ。当時は発注されるたびにまじで仕事が来ないでくれ、もういらないと切に願ったものだけれど、今は月に2本くらいはうけてもいいのになーと思っている。人間は辛さを忘れるいきものである。

その理由は、単純にフリーとしての仕事があまりに来ないから。同人誌の発注は基本的に同じジャンルの中で受けることが多いため、自然と同じ時期に集まることが多い。つまりこの月は収入はいくらかあったけれども、今月は(も)1件もない、ということがありえる。

しかもそういうのは定時の仕事が閑散期のときに起こる。

まあ言うならば、暇だからどうせならお金にしたいなあと思ったのだ。

 

そんなゆるふわちゃんな気持ちで仕事がくるわけでもなく。

営業活動をもっとしたほうがいいと思って某求人サイトで業務委託で探したものに応募したのだけれど、端的に言うと「デザイン辞めなよ」と言われただけだった。

曰く、印刷物でどうこうする時代は終わった。曰く、印刷が盛んだった時期のデザイナーたちが溢れていると。彼らはもちろんずっとやってきたのでベテランである。そして生活するだけの仕事は得ていると。それでも空いた時間があるから、格安案件を引き受けるらしいのだ。そうなってくると、デザイン力が劣っていて、かつ金額はまっとうにほしいと思っている我々のような世代に仕事を回すことはできない。

まっとうである。

金額勝負をしかけられたら当然のように、ノウハウや経験が足りてない分だけ負けるに決まっている。

デザインというものは、発想力も大切だけれども、結局の所経験値がものを言うのだと思う。ベストアンサーへたどり着くまでどれだけ時間をかけずにすむか、というものだ。

絵を描いたりする人たちは、いつも0から、白紙から描いているわけで、それがクリスタの機能をつかったとしても、自分の良さを出すためにかならずやらなければいけない工程が多いように思う。

いっぽう、ベクターで作るデザインというものは、ある程度まで使いまわしができるように思う。イラストまで時間をかけなくて良いように思うのだ。慣れたものを作るのに時間がかからなくなる、というのは似ているように思うけれども、書き込めば書き込むほどよくなる絵と違って、デザインは作り込めば作り込むほどよいと言うものでもないように感じている。すくなくとも、じぶんがやっているようなチラシの域ではいかに時間をかけずにものを作るか、ということばかりやっている。

ある程度の決まりがあって、それさえ守ればルーティンワークのような、決まった動作で作るほうが安心感があってよいことさえあるように思う。

自分はそれにまだまだ達していないという自覚がありつつも、数をこなさないとうまくならないから仕方がないじゃないか、という開き直りすらもある。

とりあえずゆるふわちゃんな気持ちでもいいから、仕事がほしい。忙しい時期があったことを考えると、金すら生み出さない暇は恐怖でもある。

 

昨年書いた記事を読んでいると、1年経って「こうじゃないな」と思うことがあって非常に面白い。しかし1年でたった4記事しか書いていないというのも雑魚っぽい話だなと思ったから、もう少し頻繁に書けるようにしたいと思う。

わたしは幾度も自分の文章を読み返す。そうすることによって、自分の考えを改めて見つめ直すことができるし、間違っていることに気づくこともできる。むかしは誰に晒すのも怖くない自己との見つめ合いを書いていたものだけれども、年をとってくると「人にどう思われているか」を気にするようになってしまって、面白い文章を書かなければ、読み応えのある文章を書かなければ、と考えている。

20年近く文章を書いているにも関わらず、いつも自分は面白い文章が書けないなと思っているので、いい加減諦めたい。

 

こういった散文を書いていると、段々と言葉がむかしっぽい書き方になってくるのも、ちょっとおもしろい。今日は現代人の気持ちなので、ふわっとした書き方をしたのだけれど、もう少し頭の中が冴えてくると言い切りや断定のかたちで書けるようになるので、せめてそこまではアウトプットを戻したいなと思うばかりである。

ないへきだったかうちかべだったか

自分の考えた言葉の意味を忘れる。わたしに言葉の色はわからない。空想ならできる。共感覚を持ち得ないと自分でわかりながらも、そこに色を見い出せばそれは共感覚足り得るのではないだろうか。わたしはわたしの直感を信じている。誰かの受け売りだ。直感が正しかった時、それはどうして、と問いかける。なぜそう判断した? どうして選んだ? その時の状況は? などなど。

さいきんお話を紡ぐときに映像が見えるようになった。昔からそうだったような気もするけれど、こと更に鮮明だ。昔書いた話は色鮮やかな赤とオレンジを持っていた。十年前のわたしは、もみじが散りゆく庭を、華やかに燃える夕陽を、そして日本が堕ちゆく落陽を、こうも描きたかったのかと。そしてその鮮やかに青さを増す秋の空に、ぽつんとたつ灰色の墓石を。なんともノスタルジック極まりない。
けれどもわたしが色鮮やかに「見た」世界を、はたして誰が受け入れてくれるのだろうか? 少なくとも今は情景が浮かぶような描写を心がけてはいるが、はたしてはたして、他の感受性とはいかに。知る由もなし、理解できるものでもなし。


ここ最近になり、ようやくひとつの答えが出た。わたしは多を認識するときに、性別を重んじることができない。体躯の差異は個性だと思う。「女性らしい女性さ」は教育の賜物であり、他の「女性らしい」女性と青春ゲームをしてこそなり得る結果だと見る。男性もまたしかり。しかしながら、昨今は男性と呼ばれる体躯を持つ人間に多様性を感じているのは、わたしの性欲求の対象が男性であるからだろう。自由を先に得ることができるのは男性だからだろうか。世の女性は一体何に縛られて自由ではないと錯覚するのか。与えられることを常として生きる人間ほど、多様性を理解しない気はしている。これは、女性だからではなく、単に「女性らしい女性」として育てられたからでは、と思う。
人はおそらく思春期のあいだに、いわゆる女子中学生や高校生のころに女性性を獲得するのではないか。身体つきや初潮のおとずれ、一足早く女性性に目覚めた学友によって。仲睦まじく他者を排除していく排他的なさまを女らしいと言うのであれば、まことに女性らしい限りだ。

わたしが観測する上で女が怒るのは、男のこれまでの教育だ。女は下。家庭に入るべし。男にダッチワイフとして可愛がられたあとに子を成すべし。子はすべて女が見るものもする。などという昭和もびっくり価値観だ。それから、乱暴性。ブスなどと不名誉な見てくれをけなすことばを投げかけ、髪を引っ張るなどなど。いやしかし二十云年も昔のことを未だに覚えて苦手意識を持つなど、その記憶力に感服する。
仲良くしていた男性が突然男女関係になることを望んだり、性的欲求を顕にすることを、テディベアにペニスが生えたようと感じるらしい。はてさて、彼女らは目の前にいる人間すべてが無性別だと思って生きているのだろうか。自分と仲良くできるのはその股間に露出する性器が目立たない生物だけだと思っているのだろうか。だとするとこの女性はとんでもなくショタコンなのでは?

はあ、さて、個性を得るのはどこでだろうか。自身が生まれてしまった性別が影響を与えるのは仕方がない。異性とともにあるべきと思うことも仕方がない。なぜならば交尾をして繁殖することは動物的使命だからである。現代の地球において必要かは、ここでは問題ではない。男が嫌いな女性は大抵、性交渉を望んでいない。過剰に恐れる傾向があるように思う。経験不足のなせる業だとも思うけれども、だからといって不特定多数とことを致すのもあまり正しくないように思う。妊娠のリスク、性病のリスク、みずからの性質が誤解されるリスクなどにより。
けれどもパートナーというものは、必ずしも性交渉を必要とするのか? 異性間であれば、避妊をしてまで行うべきなのだろうか。望まない人間が存在するということを、かならずしも、望まないあなたはわかっているはずだ。
では簡単な問題である。
「わたしの考えを当ててみよ」
答えは明朗。
「そんなの知るか」
これに尽きる。そして個が生まれる。

子供ではないのだ。少なくとも、異性に関して、将来を見据えた性的な意味で嫌気を差すくらいには。嫌なことをされたから、嫌い、で片付くような単純な脳構造を持つ生物ではないのだ、すでにわたしたちは。
伝えねばなるまい。声を大にして。自分が望むものと、嫌悪しているものを。そして聞かねばならない。相手の反論を、他者の意見を。なぜなら言論の自由が保障されているからだ。子供のように駄々をこねていやだいやだ嫌いだきらいだと理解を示さず喚くだけならば、その口を閉じて独りで生きるが良い。少なくとも昨今の日本では許されているはずだ。

はあ、さてさて、わたしたちは描かねばならない。みずからだけが見えているものを。でなければ他人に伝わらない。そして宙にはなったことばの責を背負わねばならない。言論の自由とはそういうことだ。


誰かの体内に指を入れたことがあるだろうか。粘膜でできた内臓の中へ。みずからのでもいい。たしかに熱があり、そして傷を拒むための粘液がある。それを擦ってなお傷を付けたいと思うのがわたしの性質だ。こころに瑕を付けて、わたしが恍惚にひたるとき、あなたもまた気持ちよくなればいいと思う。そしてまた、あなたもわたしの内壁へ指を差し込んでしまえばいい。他者の中は気持ちよく、柔らかい。生きているからだ。

ねむれない夜によせて

最近はずっと夜寝付きが悪い。朝は無限に眠れる。在宅勤務だから、朝の9時45分にいやいや布団から抜け出してシャワーを浴びて、10時の始業に間に合わせることだって出来る。
おとといの、くるまのひとたちの集まりから帰った日は、20時にはすでに布団に倒れこんでいた。寝間着のズボンが見つからなかったのを覚えている。そのまま、23時過ぎまで寝て、すこし起きて、また寝た。3時間半程度しか眠れずに向かった集まりだった。そのまま、朝の9時45分まで、眠りに眠った。それでもまだ眠い。

昔から眠るのは不得手だった。精神科に行っても、心療内科に行っても、総合診療にかかっても、聞かれることは同じだ。「つらいことがありますか?」つらくない人生があるのだろうか?
言葉の限りを尽くしてわからないと伝える。息をしているだけで、生きていくことを許されないここちしかしなかった。けれどもそれが当然であるのなら、これは「つらい」ではないんじゃないかとも思っていた。
いまなら当時の何が辛くて、何が疎ましくて、何が許せなくて、何に許されたかったのかがよくわかる。何度も思った。もしうまれかわれるのなら? ――二度と生まれてきたくない。


思い返しても嬉しいことも、許されることもない人生だった。つらくない人生が、あるのだろうか?

戯れに話を作る。田舎に引っ越して以来、刺激があまりにも足りずに、眠っていた創作意欲が首をもたげる。
可愛らしい大学生の男ふたりのBLだ。賢しい学生と、ドロップアウト寸前の趣味に生きる学生。その賢しい学生のキャラクタを作るときに、こんどこそかわいそうじゃない男の子にしようと思った。
腐女子はすぐかわいそうな過去を作りたがる。なんとなく幸せなひとが救う話を作りたかった。
賢い大学生、となるモデルは夫の周りのひとたちから拝借する。彼の研究、彼のモチベーション、彼のシニカルさ、彼女の熱意。つまみあげた最後に夫に聞いた。
「きみにはトラウマがありますか、それはなんですか?」
その時に何をしていたかは覚えていない。そう長く悩まなかった。なんでもないことのように、事実何でもないから、軽く答えた。
「ないよ」
「ない」
「うん、ない」

生まれてきて一番に驚いたと言っても過言ではない。メンヘラの周りにはメンヘラしか集まらない。つらい過去と、思い出したくもないトラウマ、フラッシュバックする最低な思い出、身悶えするほどの失敗の記憶。それが当然だと思っていた。

夫は寝付きがとても良い。眠れないとぼやいていても、眠れないと思うわたしより圧倒的に早く寝付く。時折意識のない体が揺れる。その度に寝付けないのはわたしだけだと思う。
それが夫のしあわせかどうかは、本人に依るので断言はできないけれども。わたしにとって、見たことのない人種を一番のそばで眺められるのは特等席以外にない。
この人はどんなに嫌なことがあっても、かなしいことがあっても、苛立つことがあっても、きっと安らかにすやすやと眠ることができる。そうして脳の老廃物を流して、記憶をきちんと整理して、理想的な朝を迎えるのだと思うと、銀河ほどの隔たりを感じる。

妻として何を思えばいいのか皆目わからないけれども、それがわたしの作ったキャラクタに直結するのだと思うと、彼はきっとたくさんのひとを救うのだろうなと思う。想像の中で生きる彼に思いを馳せるのは自由だ。それをしあわせと断言するのであれば、間違いなくしあわせなのだから。

想像で飛び立つ創作の彼が言う。
「だっておれ、痛いことも苦しいこともキライだし」
そのとおりだと思う。

自分のことを話したい

読書をするようになったきっかけを覚えている。中学校の先生が江國香織を勧めてくれた。兄と仲のいい先生で、そのときわたしは兄が嫌いだった。でも兄のことを好きな先生は好きだった。わたしのことを好きになってくれるかもしれないと思ったからだ。中学生の頃から承認欲求を歪めて生きていて、親友の好きでもない彼氏を寝取ろうとするくらい最悪のすれた子どもだった。

とかく、そのときに読んだのは確か「号泣する準備はできていた (新潮文庫)」だった。図書室にはなく、先生の個人所有の単行本を読ませてもらった。それから中学二年から突然小説が好きになった。江國香織を片っ端から読み進めて読み進めて、受賞作意味はあるのだと知った。後ほど撤回することになる。

 

当時家が最高に最悪の状態で、父親は無職を極めてヘビースモーカーパチンカス、母親が働いて家計を支え、喧嘩が絶えない素晴らしい状態だった。兄もわたしも反抗期だった。妹のことは不思議とまったく記憶がない。酒を誰も飲まないのが唯一の救いだった。

わたしが家族の立場だと、娘が表現を好きになってしまって、いつ自分たちの行いを露呈されるのだろう、と恐れることはないのだろうかと思う。わたしの実家は危うい。互いに殺し会える状態をずっと保っている。すぐに家族間で傷つけ合う。名字が変わったことに安寧を見出す。わたしは血のつながった家族を許すことが出来ない。もうずっとだ。

 

その救いを小説に、物語に求めた。わたしの家のような、テンプレートと言うべきよくある平凡で最悪な家庭なんて死ぬほど出てくるのだ。もしかしてこの最悪を脱出するすべが見つかるかも知れない。ヒロインは可愛くて可愛そうなほどいい。子どもが選べない親が最悪だともっといい。でも逆境に生まれた彼女たちはひたむきに努力をするのだ。努力をして、どんな境遇にも心を折ることなく、前向きに、努力をするのだ。

この最悪を脱出するくらいならいくらでも努力ができるような気がした。我が家にはすでにインターネットがあったから、個人サイトで自分を込めた小説を書きまくった。誰も救われない面白くもない話だ。この記事のように。

様々な現代小説には様々な家庭環境の人間が現れる。みな若く、十代で、何をすることもできない。男も女も平等にみな不幸だ。そう思うように仕向けられている。それはあっさりと書かれて主題にならないことも多い、何かを抱えて生きているひとの話が求められているからだ。その中にその辛さが主題にのぼる話も出てくる。それをウリにする話はたいてい面白くないから読まないことも多い。たまに出てくるくらいが解決できるかも知れないと思う。彼や彼女らの生活にほんのちょびっとスパイスを。そしていつかの大きな壁に生まれた家の地獄を。それを解決するための努力を。

――努力をして、努力をして。白馬の王子様が現れるのだ。

そんなことってある?

 

本を読むことが好きだと認識して十幾数年、さすがに救いを求めるだけのために読んでるわけじゃない。本を読むことは楽しい。

一番好きなのは作家の私生活や考え方、きっと経験したのだろう物事が漏れたことを感じたときだ。そこの部分だけ生々しさを感じる。ああきっとこれはせんせいが体験したのだろう、とほくそ笑む。自分の中だけで生々しさを感じ、文章の向こうに生きた人間の匂いを感じる。わたしはそういう文章を愛している。誰かと共有したいとも思えない密かな楽しみだ。

読書は楽しい。まるで自分がそこに入り込んだようなリアルな文章も、美しい文字が重ねられた詩集も、その作家が楽しく書いたエッセイも、未来の技術で溢れた夢のような世界も。わくわくする。どきどきする。切ない気持ちになる。涙腺が刺激されて泣くことも許される。

 

そこに突然自分の人生に近しいものが現れると、かちり、と閉じた扉の鍵が開く。救いを求める。解決策を、打開策を、知るべきだと使命感にかられる。わたしは救われたいのだ。自分を重ねる。必要以上に彼ないし彼女に入れ込む。まるで自分に起こったことのように。

そして、勝手に期待をして、勝手に裏切られる。この世は地獄だ。もし死んで生まれ変われるなら二度と生まれてきたくない。最悪の読了感を迎える。大団円。ハッピーエンド。最高の終わり方だった。素晴らしい話だった。死にたくなるほど。

 

知りたいと思いながら、知るまでの過程に心をえぐられるのが好きじゃない。だから現代文学でそのような香りがするものを避けているのかも知れない。だからこそ、ライトノベルで出会ったときに、なんの準備も出来ずに、えぐられる。えぐられながら、今度こそ救いがあるのかもしれないと期待をしている。

 

直近で血の呪縛に縛られた二冊。一冊は一人と結婚したあと離婚してもう一人と唐突に家庭を持ち子どもを持って幸せになった。ばかやろうと言う気持ちになった。読み終えてすぐ売った。もう一冊は白馬の王子様が、まさに富と名声美貌と能力に彩られた美しい王子様が、すべてを救った。ばかやろうか。中途半端な軽い気持ちで家庭の不和を描くんじゃねえ、適当にインターネットで調べた薄っぺらい知識で、どこにでもあって誰しもがえぐられるような話を、適当に、書くんじゃねえ。くそったれか。

努力の方法もなかった。運だった。歪んだ家庭に生まれながらも「歪むな」と。「素直であれ」と。「運良く現れる王子様を待ちなさい」と。「現れない主人公は存在しない」と案に言っていた。

 

わたしが成功だと確信したのは夫婦喧嘩をさせないことだった。他人の怒鳴り声は、金切り声は、感情の昂ぶった声は心を揺らす。良くも悪くも感情のこもった声は攻撃力があまりにも高い。何か揉めそうになったときは積極的に割って入る。双方の持つストレスを刺激しないように、求めている言葉をあげる。一緒に出かける。わたしは母親ないし父親になついているのだと、あなたの価値観を愛しているのだと、すべて認めてあげることだった。少なくともわたしが家を出るまでは成功した。ぐんと夫婦喧嘩が減ったように思う。

そんなことを思いついたのは結局友人の言葉だった。「いやなら変えてみれば」といったたぐいの話をされた気がする。家がいやだいやだと喚くくらいなら、自分で変われば、と。結局物語に解決策は見いだせなかった。

 

家を出た後に妹に言われた。「姉はすべてを捨てて逃げたくせに」と。夫婦喧嘩がまた戻ったらしい。当然だ。緩衝材がなくなればぶつかるに決まっている。わたしの家族は全員が全員愛されることに慣れきっている。地獄のような家族のくせに、無条件で、自分が愛されるに値する人間だと、自分のことを慮ってくれるひとが周りにいるのが当然だと、思い込んでいる。友人に言われるまでわたしもそうだった。妹の気付け薬にわたしはなれない。

 

地獄は天国になり得ない。どんな物語を読んでも。自分が犠牲になって周りをすこしマシにするか、自分が地獄から這い出るしかないのだ。這い出た地獄をたまに顧みる。

わたしは家族を許せるか? 否、許すことは出来ない。

 

わたしが問題を解決できたらそういう話を書ければなと思っていた。逃げて気づいた。この地獄はこの血筋がすべて死ぬまで終わらない。わたしは誰かの救いにはなれない。薄らと気づいている。物語で救われることはない。一時的な凌ぎにしかならない。でも苦痛を与えられて飼い殺されるくらいなら、甘美な非現実世界を夢に見て自分で死ぬほうがよっぽどマシではないか?

地獄は地獄だと認識したときから始まる。自分に酔って閉じこもりさえすれば、そこはただの地獄だ。希望なんて見なくて済む。

 

この話はすべてフィクションです。

気が狂ったように本を買う

個人事業主を始めました。

定時の仕事を10:00〜18:00にしながら、そのほかの時間をフリーの案件に割くという生き方にシフトしました。

前職案件を基本的にすることになったため、だいぶ結構しんどいときは翌1時くらいまでものを作っていますが、まあ基本的に自由に働けるので嬉しいです。

 

前職では仕事のことを仕事じゃない時間に考えるのが本当に嫌で、でも一応デザイナーなのでインプットはしなきゃいけない。でもアウトプットがうんこofうんこみたいな内容で、、、という完全に仕事いやすぎマンになっていたのですが、まあ現職は人生が仕事みたいな感じになってくれたので、非常に楽しく暮らせています。

今まで、好きなことを仕事にすると辛いと言うのは事実だなと思っていたのですが、つまりお金がもらえないから辛いってことなのかなあとも思いました。

 

イラストレーターを目指してヒモ生活送ってたときも、今考えると結構楽しかったのですが、認められない(=まともな報酬がもらえない)っていうのは辛かったと思います。

一番しんどかったのは一枚絵描いて、人物二人、背景なし、ラフでオッケーもらって線クリンナップからの色も載せました、からの

「なんか違うんで描き直して下さい」

が、5000円だったこと。

 

今はA4のフライヤー両面で何万円かはもらえる。

そしてIllustrator(神Adobe社のソフトの方)はexcelも同然なので、なんとかなる。

なんとかなるってすごく大切だなと思いました。

 

もともとわたしはイラストが描きたい人間なのではなく、人生に掲げた大きな目標を達成するための手段の一つでしかないと思っていたので、まあ言い訳なのですが、なんにも極めることができてないんですね。

10年前に描いたイラストと進化がなくて笑う。小手先の技術が上がっても絵面としての魅力もなければ、ありとあらゆる角度も描けなければ、背景だってろくに描けるようにならなかった。遊んでんじゃねえよって思いますね。遊びだけど。

 

Illustratorを使ったチラシの作成が主な仕事なのですが、絵を描こうとすると見ても描けないってことが結構多いけれども、デザインってそんなに凝ったものはないので大抵のことは見ればなんとなくどうにかできちゃう。

厳密に言えばPhotoshopを使ったパチンコ屋のズギャーンな処理はIllustratorじゃどうしても出来なかったりしますが、まあ大体どうにかなるなるの気持ちで軽く取り掛かれるので非常にいいです。

そのお陰で超うるさいチラシは得意ですが、余白のあるきれいめデザインが死ぬほど苦手です。情報詰めるのだーいすき!

 

そろそろグラフィックデザイナーとして2年経ったし好きなことしよ、と思って好きなことは?って考えると、ずっと装丁デザインがやりたかったなと。

とにかく本が好きで、紙の本を愛していて、そうやって育ってきたから自分でも作りたい。川谷大先生の名前を認識してからはもうだめです。何なのこの人。神様なの。

 

 

上記と反することいいますけど、装丁デザイン見てもわかんねえわ。なにこれ。才能か。笑う。

笑ってても仕方がないからちゃんとしよ、と思って本を買い漁る毎日。最近買った本リストアップしたいけどすでに把握してない。昨今の積読だけ上げとこ。

 

われらはレギオン2 アザーズとの遭遇 (ハヤカワ文庫SF)

冗談抜きで1が面白かったSF。宇宙に出る増殖するボブの話。なんかめっちゃ面白い感想文が流れてきて買ったけどオタク&ギークにはいいんじゃないですが。わたしオタクでもギークでもないけど。

ララバイ・フォー・ガール(フィールコミックス)

百合っぽいような百合っぽくないような。女性がかつて通ったような、女子校だからこそのような。わかりやすい幸せになんてならないけど、でも不幸せでもない、人生は続いてくねって感じの短編集。絵がきれい。最近絵がきれいなコミックス多くてすごいよね……。

大正箱娘 怪人カシオペイヤ (講談社タイガ)

大正箱娘 見習い記者と謎解き姫 (講談社タイガ)

ブランコ乗りのサン=テグジュペリ (角川文庫)

ガーデン・ロスト (メディアワークス文庫)

あやかし飴屋の神隠し (メディアワークス文庫)

紅玉いづき先生を久々に読んだ。(現代詩人探偵 (創元推理文庫)悪魔の孤独と水銀糖の少女 (電撃文庫))ら、良すぎて勢いで買ったけどラノベが読みたい気分じゃなくて積んでる。現代詩人は結構読みにくくて支え支えよんで結構時間がかかったのに、悪魔の孤独〜はまじで一瞬で読み終わった。なにこの書き分け。まじすげえ。で、勢いでたくさん買った。積んでる。

スクリプトドクターの脚本教室・初級篇

自分の書く話まじでおもんないちゅったらおすすめされました。ゆっくり読んでる。こういうやつって早く読んでも価値ないけど置いとくと進まないよね。

サイコパス (文春新書)

物語に一人くらいサイコパスが出てくるほうが面白くないですか

えんま様の忙しい49日間 (小学館文庫キャラブン!)

内容がどうとかより各章の扉とかのデザイン良すぎ問題

 

 

オリジナルのBLコミックスにもハマってて結構買ってたのですが、最近ちょっと二次創作BLに金使いすぎてるのでお休み中です。

二次創作も全部書籍代だし参考資料だよ熱くないですか……なぜならわたしは同人誌の装丁もやりたい(やってる)からね……!

 

ちなみに人生が仕事になってしまった場合の衝撃的な事実です。

通勤時間がなくなってしまったために本を読む時間がありません。増える積読。今日もいづき先生が届くよ。